「これでもう、逃げることもないな」 足元では、荒い息の菰野が後ろに手をつき、崩れそうな身体を支えていた。 両太腿からは鮮血が溢れている。 「葛兄様……どうしてですか……」 かすれた声で菰野が尋ねてくる。 その瞳が、どこか縋るような、祈るような色でこちらを見つめていた。 父上と同じ栗色の瞳、父上と同じ栗色の髪。 どれだけ欲しいと思ったことか。 いつもいつも羨ましくてたまらなかった。 鏡に映るのは、父上とは似ても似つかない青鈍色……。 それは、私を冷たく見下ろす母の色だった。 この瞳を隠したくて、前髪を伸ばし始めたのはいつだったのか。 もう、随分と昔の事だ。 刀の鎬で殴りつけられた菰野の、目の脇と頭部に新たな傷が付く。 目の端にうっすらと涙を浮かべながらも、菰野の表情は変わらなかった。 せめて、お前が私を憎んでくれれば。もっと、濁った目を向けてくれるなら……。 「けれど……私が幼い頃、葛兄様はよく遊んでくださって……」 菰野の言葉に、ふいに懐かしい日々が胸をよぎる。 いつも私にべったりだった菰野。 何がそんなに楽しいのかと思うほどに、いつもにこにこと私の後ろを付いてきていた。 私を唯一慕ってくれた菰野。 そんなお前が本当に可愛かった…… だが、お前と一緒に居れば居るほど、 父上が、どれほどお前を愛しく思っているのかが伝わってきて 私に対するそれとの違いを見せ付けられているようだった。 『葛原は、いつも菰野と遊んでやって、いいお兄さんだな』 父上が声をかけてくださる。 私が菰野と一緒にいる時、父上は、とても嬉しそうな顔をされる。 それが、従弟と遊んであげている私に向けられたものでなく 従兄に遊んでもらっている菰野に向けられていたものだと気付くのに、時間はかからなかった。 「話はここまでだ」 意識を目の前の菰野に集中させるべく、軽く頭を振る。 そのまま静かに息を吐き、腰を落とした。 狙うは心臓。 袈裟斬りに、菰野の左肩から斜めに刀を降り下ろす。 刀は、十分な深さをもってその身体に食い込んだ。 右手を伸ばしかけた姿のまま、菰野が地面に崩れる。 「……こ、菰野!!」 いつの間に現れたのか、菰野の女が悲痛な声を上げ、菰野に縋り付く。 「菰野の女……か」 私の呟いた声に、慌ててこちらを見上げる少女。 これだけ至近距離で、剥き出しの刀をもって立つ私が目に入らないほど 菰野だけを見つめていたのだろうか。 父上といい、加野伯母様といい、この妖精といい、久居といい、 お前は、本当に多くの者に、心から愛されているのだな……。 ピクリともしない菰野に視線を落とす。 私と……違って……。 菰野は完全に気を失っているようだった。 あるいは、もう死んでしまったのかもしれない。 苦しむようなら首を落としてやるつもりだったが……。 「よし……特別にお前も菰野の許へ送ってやろう」 菰野への最後の思いやりは、この妖精へ向けることにして 刀を上段に構える。 「動くなよ……一刀で仕留めてやる」 恐怖をありありと映して、こちらを見上げる妖精の瞳は 月の光を浴びてキラキラと金色に輝いている。 その瞳に向けて、真直ぐに刀を振り下ろした。 ……はずだった。 突如横から飛び出してきた少年に刀が触れた途端、 耳障りな音と共に、刀は、その刃紋から地までを失った。 急に軽くなった刀を反射的に引き寄せて、切先を見る。 「なっ……何だ……これは……」 刃は、溶け落ちていた。 硬い物を斬れば、それは刃こぼれもするだろうし、場合によっては折れることもある。 しかし、今この刀は目の前で溶けた。火すらもない場所で。 背中を冷たい汗が伝う。 目の前の、十にも満たないであろう少年は、 精一杯両腕を広げて妖精を守ろうとしている。 未知の力としか考えられない状況に、頭が付いていかず思わず後ずさると、 少年の視線が地に落ちた。すこしうつむいたその頭には、 黒茶の円錐のようなものが顔を覗かせていた。 角……なのか……? とすると、この子は鬼……!? 瞬間、目の前の少年から熱風が吹き上がった。 「ちょっと!! リル!? 私達まで焼けちゃうわよ!!」 妖精が必死に叫んでいる。 だが、その声は少年には届いていないらしく、少年は一歩ずつ私に近付いて来る。 ゆらり、ゆらりと少年の周りで青白い炎が揺れる。 全身から汗が吹き出る。鼓動が早鐘のようだ。 必死で後ずさろうとするも、身体がいう事を聞かない。 頭のどこかで本能が警告している。 このままでは殺される。と。 それを理解するより早く、目の前の少年が何かを叫ぶ。 同時に、彼を取り巻いていた青白い炎が一斉にこちらへ飛び掛かってきた。 一瞬の驚愕。そして理解。 私は今、死ぬのだと。 いけない……。 父上から託された、この国を、あの城を、私が守ってゆかねばならないのに。 そうでなければ、何の為に今までずっと学問や剣術を学んできたのか…… 父上の第一子として、父上にとって恥ずかしくない世継ぎであるために どれほど努力をして、虚勢を張って、今まで…… 死ぬわけにはいかない……死ぬわけにはいかないんです、父上……。 国の紋が入った、首元の紋球が溶けて顔にかかる。 熱さはもう、全く感じなかった。 手足がどうなっているのかも、もう分からない。 視界は真っ白だった。 あの世では、父上と加野伯母様が、菰野を迎えて楽しく過ごしている…… そこへ私が行っては…… 父上は、私を見てどんな顔をされるのだろうか あの城を置いて来てしまった私を……どんな瞳で…… どうか、せめて……叱ってください………… …………父……上…… |